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2011年4月

2011年4月24日 (日)

買い出し

 小鳥のさえずりが響きわたっている。
 電動車いすの後ろをヘルパーさんについてきてもらいながら、住宅地の道のはじっこを進んでいた。
 通りかかる家々の庭で、白や黄、紫の草花が、陽を浴びながらゆれている。
 電動車いすの後ろのヘルパーさんは、穏やかな三十代の男の人で、ゆるいパーマをかけていた。
「尾崎さん、あったかいのか、寒いのか、よくわかんないですよね」
 たしかに陽ざしは、ぴりぴりするような温かさである。けれども空気が冷たくて、風が吹くたび身にしみた。ぼくもうなずいて、
「ほんと、よくわかんないですね」
 冷蔵庫の中の物が少なくなってきた。食材を買いにアパートから十五分ほどの〈ザ・モール仙台長町〉へ向かったのは、昼の少し前である。
 近くの〈ヤマザワ〉のスーパーが、前の月の地震でやられ、まだ工事中である。営業が再開するまでは、少し遠くの店へ、足を伸ばさなければならない。
 平成二十三年四月二十四日、うっすら青い空に、雲がゆっくり流れている。
 住宅地を抜け、田んぼの道を過ぎ、大通りへと出る。
 信号を待つ。手前の車線は高く、向こうは低くなっている。ぼくはふり向いて、
「ここも、地盤が沈下しちゃったんですかね」
「あぁ、ほんとだ。すごい地震でしたもんね」
 あの地震があってから、もうひと月半はたつだろうか。
 並木が裸の枝をさらし、寂しかった通りも、いまはもう、若葉の緑がずっと続いている。
 長町南の中心地も、少しずつ、活気づいているかにみえた。〈ザ・モール仙台長町〉の食品売場へ着いてみると、すごい人込みだった。
 広い売り場で目当ての食材を苦労しながら探しまわる。
「どこにあるんだろう」
「こっちかな」
 ヘルパーさんが買い物カゴをもちながら、
「それにしても、どこに、何があるんだか、さっぱりわかりませんね」
 はじからはじへ、ぼくもふと天井のほう仰ぎながら、
「こんなに大きい売場だと、やっぱ、時間かかりますね。いつものヤマザワのスーパーの何倍あるのかなぁ…」
 ようやく帰宅後、魚は切って冷凍し、野菜は冷蔵庫へ入れてもらう。
 用が終わってヘルパーさんが帰り、部屋でひとりになってから、布団に横たわる。
 小鳥が外でさえずっている。人込みの電動車いす操作で疲れた神経が癒される。いつしかまどろんでいた…。

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2011年4月 8日 (金)

東日本大震災でおなかがすいて

 割りばしをつけたサンバイザーをかぶり、パソコンに向かう。
 あたまを動かしながら、割りばしの先で一つ一つキーを押し、メールの文をつづる。
「○○さんは、だいじょうぶですか。ぼくは、おかげさまで、なんとか無事でした」
〈東日本大震災〉があってから、もう少しで、ひと月になる。あの日をふり返る。
 パソコンが踊るように倒れ、スピーカーが棚から落ち、電子レンジ、炊飯器、いろんなものが一斉に落下した。午後の三時少し前だったろうか。
「平成二十三年三月十一日、東日本大震災 発生」
 被害の甚大さは、時がたつにつれ、現実味をおびてくる。津波で壊滅した町、地盤の沈下、地すべりで、住めなくなった家々の映像が、テレビや新聞で、連日報道されていた。
 部屋で座っていても、気を抜けば、そのまま振り飛ばされてしまいそうなほどの揺れだった。ちょうど訪問していたヘルパーさんが帰る前で、それがさいわいだった。
「前の宮城県沖地震のときは、もっとゆれたんですか?」
 聞かれてすぐさま、ぼくも、
「いや、いまの地震のほうが、ゆれは大きかったはず」
 三百年に一度の大地震だったと、あとで人づてに聞く。
 おそらくだれにとっても、一生、忘れることのできない災害の日になるだろう。
 余震がやまず、ひとりでは危険なので、その晩は、太白区役所のロビーへ避難し、一晩過ごした。余震があるたび、どきっとし、悲鳴をあげる人もいた。
 時がたっても、余震がおさまる気配がない。そのままずっといるわけにはいかなかった。
 脳性まひ、という運動神経にかかわる障害がある。手足が不自由で、話すにも舌がもつれ、はっきりした言葉にならない。
 耳のいい人や、関わりなれた人でないと、こちらの話をうまく聞きとれなかったりすることが多い。
 いつも関わり慣れているヘルパーさんたちも、地震の被害に遭っているのだ。介助が必要な時間に来てもらう、ということもむずかしそうだ。
 そこで区役所の職員さんが、しばしのあいだ、受け入れてくれる介護施設を探してくださった。
「あちらのほうが、専門の介護員がいっぱいいるので、少しは体が休まるかと思います」
 そして一週間ほど、介護施設でお世話になっていた。
 どこにいても、食べ物があまりなく、そのたびに、地震の被害の甚大さを思う。
 その部屋で布団にちょこんと座り、たたんである掛け布団の上に携帯電話をおく。鼻でボタンを押しながら、あちらこちら連絡をとる。あるいはぼんやり過ごす。
「おなかが、すいたなぁ」
 そこへ介護職員さんが夕食を運んできた。
「あぁ、やっと食べれる」
 喜んだのもつかのま、介護職員さんが、きょうのはご馳走ですよ、とスプーンでぼくの口へ運んでくれようとしていたのは、なんと、
「京都の名物で、イナゴの佃煮です」
 さらっと言われ、よくみる。
「マジですか。よりによって、こんなときに、イナゴの佃煮を…」
「やめ、ときますか?」
 そのあいだも、おなかはグウグウ鳴りつづけていた。
「た、た、食べます」
 満たされぬ食欲に、もはや打ち勝てず、イナゴはきらいだったけれど、目をつぶって食べた。
 ふたくち、みくちとすすむにつれ、いつのまにか、なんともなくなった。
「じつはぼく、イナゴ、苦手だったんですよ。でもなんか、克服しちゃったかも…」
 思いきって食べてみると、小魚の佃煮と、そんなに変わらなかった。
「震災で、きらいな食べ物、克服しちゃったんですね、ハハ」
 その話を実家へ移ってから母にもしたら、
「イナゴ、食えるようになって、いがったべぇ」
 と笑っていた。
 アパートの壊れた箇所も、大家さんに連絡して直してもらった。電気、ガス、水道とだいじょうぶですよ、と言っていただき、四月六日にひとまず自分のアパートに戻った。
 踊るように倒れたパソコンが、無事に動いたときは、ラッキー と声をあげてよろこんだ。これまでの資料を失わずに済んだからだ。
 たくさんのメールは知人やネットで知り合った方からだった。
 その次の晩、部屋の壁や天井がきしんで、大きく揺れだした。すぐにパソコンをオフにし、そこから離れる。高い棚のない場所へ這っていき、おさまるのを待つ。夜の十一時半を過ぎたころだ。
「がんばろう。元に戻るまで、たいへんなのは、みんないっしょなんだ…」
 苦く笑いながらも、前回のときよりは、われながら、落ちついていられた。細々したものが散らかっただけで、アパートも、電化製品も、無事だった。
 またいつ、震災に見舞われるかしれない。けれど、すべきことをしているのなら、それ以上のことは、ジタバタしたって始まらない。
「尾崎さん、無事ですか」
「困ったことがあったら、遠慮なく、連絡ください」
 届いていたたくさんのメールを、もういちど、一つ一つひらいてみる。
「なんでも来い。まけるもんか」
 胸に勇気が湧いてきた…。

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